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まずはナベツネ氏7.8名言から――。
選手会長古田の「オーナーたちと話をしたいという気持ちはある」という発言を受けて、飛び出しました。 「無礼なことを言うな。分をわきまえないといかん。たかが選手が」 ……04年の球界再編騒動を象徴する言葉であり、この言葉が、その後の流れを決めてしまった観があります。 (超わたくしごとになりますが――ちょうどこのころ、ウチの子どもが通っている小学校に出向く機会がありまして、子どもたちが作った七夕の笹飾りを見ることができました。小学校は、幕張の近くです。男の子の字で「ロッテのせんしゅになりたい」と書かれた短冊がありました。堤発言にあった「もうひとつの合併案」というのは、実はロッテとダイエーでした。「こういう子どもの夢をも打ち砕こうとするのか」という憤りを覚えたことをよく覚えています) で、「今日は何の日?」 7月9日に何があったか? 7月9日/1955(S30)年 権藤正利、足かけ3年の連敗の始まり 熊谷で行なわれた大洋ホエールズ対広島カープの試合。7回表、4-3でリードしていた大洋は、無死一、二塁のピンチにエースの権藤正利を登板させた。 1953年に大洋松竹ロビンズ入りした権藤は、球団史上初の新人王を獲得。速球とドロップを武器に弱い時代の大洋を支えた好投手だ。 権藤は平山智にセンター前にヒットを打たれ同点にされ、さらに白石勝巳にはライト前に運ばれ、カープに4、5点目を献上。この試合に負けて3勝14敗となった。 この日から長い長い道のりが始まる。敗戦の道のりである。 この年は8連敗。翌56年は13連敗、そして57年も開幕以来7連敗(6月2日まで)。 足かけ3年の28連敗だ。 で、57年7月8日。後楽園での対巨人12回戦で、まる2年ぶりに勝利投手となった。 ホエールズナインは胴上げでこれを祝福し、巨人ファンも熱い拍手を送る。ベンチに戻った権藤は、ひとり涙を流した。 翌58年から、権藤はまたもドロ沼に沈む。3勝11敗。59年は0勝1敗。ところが、60年に三原脩がホエールズの監督に就任すると、引退を決意していた胃下垂の権藤の食生活を改善させることで彼を再生させ、ホエールズの60年の日本一には、12勝5敗と貢献させた。 その後、権藤は64年に東映フライヤーズに移籍し、現役の最後は阪神タイガースで投げた(タイガース時代の67年には最優秀防御率のタイトルも獲得。73年限りで引退)。 またタイガース時代に金田正泰監督から「サルでも煙草を吸うのか」と言われたことを腹にすえかねて、監督を殴ったという〝事件〟でも記憶されている投手である。(春) 2009年のコメント まる2年、勝ちに見放されていたということになるのでしょうが、いや、ホントにつらい歳月だったでしょう。男はそういうとき――などと普遍化してしまうのはどだい無理なことですが――どんなことを日々思うのでしょうか。 べンチに戻って、ひとり流した涙。 彼の場合その後また浮き沈みがあって、人間なんてそんなもんだよ、と思わせてくれます。周りが下手にドラマ化しても、そうそう周囲の期待なんかにいちいち応えられるものではないのです。 実は権藤投手が連敗に終止符を打った7月7日という日には、もうひとつ、「連敗」と「男の涙」で綴られる場面があります。1998年。神戸。千葉ロッテのエースとなった黒木知宏が先発し、オリックスを8回ヒット2本1点に抑え3-1とリードして上ったマウンドを、プリアムの同点弾によって降りるシーン。黒木の双眸から、あふれ、止まることを知らぬ涙。そして12回、オリックス広永のサヨナラHRで、ロッテは日本プロ野球記録となる17連敗を喫します(連敗はもうひとつだけ延びて、18連敗が目下のところワースト記録です)。 黒木もその後、故障によって思うように自分の現役生活をベストピッチで締めくくれたわけではありません。つらいことのほうが多い人生ですが、そういうときでも空元気出して、前を向いて行きたいものです。
by sairyushakikaku
| 2009-07-09 10:24
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