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2001年刊『オフサイド・ブックス15プロ野球「毎日が名勝負」読本』で振り返る、「今日は何の日」? 2日目は、6月25日です。
6月25日といえば、1950年のこの日に朝鮮戦争が勃発しておりますが、日本プロ野球に何が起こっていたかというと……、 6月25日/1959(S34)年 村山実の天覧試合 当代随一の投手には、当代随一の打者がライバルとなって時代を併走する。タイガース的に時間をさかのぼれば、江川と掛布、江夏と王、そして何と言っても村山実と長島茂雄である。 役者のような端正なマスクに闘争心をみなぎらせて、長島に挑みかかる「ザトペック村山」の姿は、東京への屈折したライバル意識を秘めた大阪人の心情を、激しく揺さぶった。歌舞伎に喩えれば、江戸の荒事師・団十郎を迎え撃つ成駒屋の雁治郎か、あるいは森繁久弥に炎の対抗心を燃やす藤山寛美である(これは岡田か?)。現実の村山は尼崎市、つまり阪神間の出身であるが、「尼崎までは大阪」という地政学的金言と関西大学のスクールカラーを弁証法的に止揚すれば、彼は純然たる大阪人ということになる。 その村山がルーキーとして長島に対した天覧試合の9回裏、もののみごとにサヨナラホームランを浴びた。そして私見では、この一瞬がその後のふたりの関係、さらにピッチャー村山のイメージを象徴してしまう。つまり「長島に負けた悲運のエース村山」というふうに。 じつは彼は、この年18勝10敗、防御率1・19というとんでもない好成績を挙げているし、その後も、とりわけ防御率のよさは、今時のいかなる投手も真似できないもので、1970年には監督を兼任しながら戦後最高の0・98という記録をものにしているのだ。通算の防御率はなんと2・09。さらに言えば、村山は記念すべき1500奪三振、2000奪三振を、ともに長島から奪っている。それほどの投手であったのだ。 なるほど村山の野球人生は、「炎の男」「涙の抗議」「浪花節」といった形容句に飾られているが、二枚目のマスクに似合わぬくせの強さゆえ、いかにも阪神的な「濃ゆい」イメージが付着していた。引退後のテレビ解説でも、標準語を関西弁のイントネーションで発音するためにダササが目立ち、加えて「◯◯せないかんですね」を連発するものだから、おしゃれな阪神ファン(言語矛盾)を自認する向きには、「ちょっとかなわんね」と感じさせもした。 しかし本当は、村山実のすばらしさは、この「濃さ」「ダササ」にこそあったのだ、と今の私は思っている。それは、突然の死のショックが消えないためだけではない。村山実とは、華麗な球歴やハンサムな容貌からは想像もできないぐらい「武骨で一本気で素朴な人情家」であったのだ。 このことは、現在の野球選手をながめわたせば、千葉ロッテの黒木や巨人の松井らごく少数の例外をのぞいて、そのような男がさっぱり見当たらないという寂しい事実によって、逆説的に証明できるだろう。つまり、たとえば大衆の欲望やマスコミの扇情、玄人筋の評判や金銭的評価など、避けられない外的要因を十分知った上で、ともかくひたすら野球に打ち込むことができる無垢な心、極限まで純化された闘争心、幼児のような集中力。こうした魂のありようが、村山実をダサく感じさせもしただろうし、同じ理由で彼を、偉大な英雄として私たちの記憶に君臨させてもいるのだろう。(ISO) 実は、もうひとつネタが。 6月25日/1982(S57)年 広岡監督で、西武初優勝 藤井寺のデイゲームで阪急ブレーブスが近鉄バファローズに敗れたため、西武ライオンズの前期優勝が自動的に決まった。広岡達朗監督になって1年目。西武ライオンズの誕生から4年目の優勝だった。 73年に2シーズン制になって以来、これで6球団すべてがVを経験したことになる。 東尾修、松沼博久、松沼雅之、杉本正、西本和人の豪華な先発陣に加え、ストッパーは森繁和。リーグ一の投手陣だった。そしてこの前期優勝で目映い光彩を放ったのが、大田卓司。田淵幸一の不調時には4番に座り、チームをぐいぐい牽引する〝獅子奮迅〟ぶり。 午後4時15分には「阪急敗れる」が後楽園三塁側ベンチに伝わった。ライオンズはこれから日本ハムファイターズとのナイトゲームに臨むところだった。6時半がプレイボールであるため派手にはしゃげるわけもなかったが、優勝決定を聞いたときの大田のひと言が、いい。 「〝黒い霧事件〟などプロに入ってからろくなことがなかっただけに、本当にうれしい」 栄光の西鉄ライオンズの凋落以来、弱く情けない時代の何と長かったことか――。1963年の西鉄時代以来、ライオンズとしては19年ぶりの優勝なのだから。 試合開始と同時に、三塁側ベンチ上のスタンドでは数百発の爆竹を鳴らすなどファンはお祭りに突入した。西武が初回に3点を先取すれば紙吹雪が舞う。が、結局試合は3-3の引き分けで、9時36分に終了。同時に紙テープがいっせいにグラウンドに投げ込まれたが、ライオンズの全ナインがベンチ前に整列して一礼、声援に応えはしたが胴上げはなかった。 オーナー堤義明はこの前期優勝を見て、「これで日本一にでもなれば、選手全員を月旅行にでも招待しなけりゃな」と言ったが、ライオンズはプレーオフで後期の覇者ファイターズを降し、続く日本シリーズでも中日ドラゴンズを破って、日本一になったのだった。 いっくら金がある奴でも、まだ野球選手を月には連れて行けまい。 ……っていうか、自分のチームの実力を理解してないんだよね、オーナーって。(春) ★2009年の追加コメント 村山実という人は、私は世代的に、現役時代を実際に見るのが「ちょっと間に合わなかった」選手なのですが、引退試合をTVで観た記憶はあります。なんでも後から聞くと、その引退試合で村山がウォームアップの相手としてキャッチボールをしたのが高校生だった岡田彰布少年だということで、タイガースというチームが持つ妙に濃いドラマ性を感じてしまいます。 上記の記事にもありますが、なにかというと藤山寛美に擬せられてしまうその三枚目性からして、タイガースが岡田監督でリーグ優勝を果たすとは、(少なくとも私は)イメージすらできませんでした。岡田が監督となるのは、この本が出た3年後の04年からです(優勝は2年目の05年でした)。 パ・リーグの2シーズン制も、はるか昔のようです。交流戦や、はたまた「CS」という名のプレーオフが行なわれている現在ですが、それらが導入された経緯を思い起こしてみるとき、「月旅行」とおどけてみせた御仁を馬鹿にしてもいられなかったと感じられて、ゾッとしてしまいます。 09年。交流戦も終わり、いよいよリーグ戦再開です。
by sairyushakikaku
| 2009-06-25 13:32
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