カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
7月27日/1999(H11)年
オールスター戦、全パ、36年ぶりの3連敗 その昔、「人気のセ、実力のパ」という言葉があった。テレビで放映されることが少ない、日本シリーズでも巨人に勝てない、球場はいつも閑古鳥が鳴いている、「でも俺たちは凄いんだぜ」ということを見せようと、パ・リーグの選手たちは球宴で意地をみせ、勝つことが多かった(巨人V9時代の65年から73年までは、パの17勝8敗2分。67、74、83、87年と3タテも4回)。しかし、この日全パは1-2で敗れ、1963年以来の3戦3敗を喫した。そして、2000年も3連敗。じつは98年も1敗1分だから、97年の1試合目に勝ってから3年間勝っていないことになる。 00年、全パの王監督は、混戦模様のペナントレースをにらんで、球宴に選ばれて当然の自チームの篠原貴行投手(ダイエー)を出し惜しみした。毎度「勝ちにいく」と言いながら、そんなことしてるから勝てないんじゃない?(杉) ★2009年のコメント この頃までは3試合あった日本のオールスターも、2試合になりましたね。かつてはオールスターでなければ「動画」が観られなかった選手・チームということも少なくなり、MLB同様1ゲームになる日も近い? しかし、ああ、もうオールスターの季節なんだ、という感慨は年ごとに強くなります。 #
by sairyushakikaku
| 2009-07-27 13:21
7月24日/1946(S21)年
水原茂、満員の後楽園で復員あいさつ 「10時30分着鈍行は定時に品川を通過しました」 こんな異例のアナウンスが東京駅5番ホームに響いたのは、午前10時20分だった。ホームには、巨人軍監督の三原脩や連盟関係者が、その10時30分着鈍行を待ち構えている。 定刻――。二等車から降りてきた男は、白ワイシャツに蝶ネクタイ。ジャケットもズボンも白の麻ならば、靴も白、というスタイル。41歳の体躯は以前よりもだいぶ肥満していたが、まぎれもなく元巨人軍選手、水原茂だった。 ……1942年9月3日に千葉海岸での保養中に召集令状を受け取り、大阪の東西対抗に出場後、戦地へ。敗戦後そのままシベリアに抑留されていた、42年の最高殊勲選手、水原茂だった。 7月20日、第2次シベリア引き揚げ船で舞鶴に着いたのが7年ぶりの祖国。しばらく舞鶴で休養しての東京だった。 水原は、小田原まで出迎えた妻、長男、次男の4人とともに水入らずの昼食を京橋で済ませると、巨人対大洋のダブルヘッダーが行なわれる後楽園球場へ。試合開始前に、 「水原はただいま無事帰ってまいりました。4年間のシベリア抑留生活、帰還、そして戦前にも増した日本リーグの隆盛を目の当たりに見、万感胸に迫って……」 と感涙の復員あいさつをし、三原監督やビクトル・スタルヒン主将から花束を贈られ固い握手を交わした後、三塁側貴賓室に入って試合を観戦した。 ……巨人軍が、この年戦後初の優勝をもたらした三原監督を総監督に棚上げして、水原を監督に据えるのは、翌1950年のこと。 水原の帰還は、三原の人生に「打倒巨人」という使命を植え付ける結果になってゆく。(春) 7月24日/1995(H7)年 バレンタイン監督の発案で「阪神大震災復興チャリティードリームゲーム」 千葉ロッテマリーンズのボビー・バレンタイン監督の発案で、オールスター第1戦の前日、福岡ドームで「阪神大震災復興チャリティードリームゲーム」が開催された。 「フォーリン・ドリームズ(外国人選抜)」が5-3で「ジャパンドリームズ(日本人選抜)」を下した。目立ったのはやはりイチローで、3回裏には2死から内野安打で出て、一、二塁から広島カープの野村謙二郎とノーサインのダブルスチール。8回裏には中日ドラゴンズのリッチ・モンテからライトに復興アーチをブチ込んだ。 「フォーリン・ドリームズ」には捕手がいなかったため、マリーンズの定詰雅彦が〝ジョー〟、読売ジャイアンツの大久保博元が〝デーブ〟という名で出場した。 JOZUMEが〝ジョー〟なのはわかるが、OKUBOがなぜ〝デーブ〟であるのか――外国人には謎だった。外国人記者に「なぜ君がDAVEなのか?」と質問されたデーブは、「日本では、太っている人のことをデブといいます」と、きちんとていねいに、含めるように説明していた……らしい。 同じデブはデブでも、1981年オフに、カンザスシティ・ロイヤルズが来日したとき、南海ホークスの香川伸行捕手は、アメリカ人たちに「ビッグ・マック」と呼ばれたが。(春) ☆2009年のコメント まだ黒木も“ジョニー”じゃなかったころのお話ですね。でも、ああいうふうに呼ばれるのって、黒木は実際どう思っていたのでしょうか? 私、大学生のときにYMCAの英会話に通っていたことがありまして、そのときに付けられた英会話クラスでの名前が「チャック」……。チャックっすよ、チャック。なんで俺がチャックなの? 何をもって、俺にチャックと名付けたか? あのアメリカ人の先生。俺の顔がチャックっぽかったか? ともかくチャックと化して受けなければならない1時間半のクラスは、こっぱずかしかったなー。だから俺は、“ジョニー”も心のなかじゃ、「やめてよね」と(宮崎弁で)言ってたと思うのだ。 #
by sairyushakikaku
| 2009-07-24 12:50
7月23日/1957(S32)年
阪急・梶本、9者連続奪三振 阪急ブレーブスがまだ弱かったころの話だ。入団4年目、22歳のサウスポー梶本隆夫投手が、南海ホークスを相手に9者連続三振を奪った。それまでは連続7人が最高で、この記録はいまだに破られていない(→5月31日)。3回1死からこの日投げ合った9番皆川睦夫を三振に討ち取ると(こういう記録のときは、不思議に相手も好投手)、蔭山和夫、森下整鎮、田中一郎、野村克也、岡本伊佐美、大沢昌芳、穴吹義雄、寺田陽介を次々になぎ倒していった。新記録となる8人目の穴吹のときが一番苦労したという。この年は、稲尾和久(西鉄)が20連勝(→7月18日)、金田正一(国鉄)が通算奪三振1967の新記録を達成しているから、〝連続〟と〝三振〟の当たり年だったようだ。 梶本はこの日延長12回を投げぬき2-1で勝ち、このシーズンは24勝を挙げている。同じブレーブスの米田哲也は21勝。なのに4位。単純比較はできないが、00年、福岡ダイエーホークスが10勝投手ゼロで優勝したことを考えると、野球の〝違い〟を感じずにはいられない。(杉) ★2009年のコメント 弱かった頃の阪急のユニフォームが格好いいのです。実際見たわけではないのですが、資料には限りなく黒に近い紺地の上下にタテのストライプのそれが写っています。この復刻をやってもらいたいものです。……でもどのチームが? オリックスはやらないでしょうね。この意味でも、阪急や近鉄の消滅は大きい。 #
by sairyushakikaku
| 2009-07-23 11:44
と、タイトルを書いてはみたものの、中身は全然違う話なので、無理矢理つなぐと--。
昔は太陽を見るのに、ガラスに煤をつけて見ましょう、と習った気がしますが、09年ではその方法は絶対にNGとなっています。「常識」は変わっていくわけで、ジャッジの方法も永遠ではいられないでしょう。 7月22日/1999(H11)年 星野監督、三度抗議でカツ 巨人対中日18回戦、前半戦最後の試合。先に結論を言っておくと、この年はこういうことも多かったけどドラゴンズは優勝できたから良かったねというオハナシになる。それにしても……。8回裏、マルティネス(巨)の右翼フライを井上一樹(中)が地面ギリギリで捕球するも判定はワンバウンド。テレビでは何度もビデオが流れたが、捕っているようにみえる。もちろん星野監督は猛抗議。じつはこの日は6回に二度抗議しているから、三度目ということになる。判定は覆るはずもなく、完封ペースだった野口茂樹が気落ちしたのか1点を失い、4-1になる。しかし監督の気迫は選手に乗り移っていく。自慢の中継ぎをすっ飛ばし、ここでいきなり切り札宣銅烈を投入。いやな流れを断ち切る。そして9回は「怒りの猛爆」で7点を奪い勝利を決めた。ドラゴンズは首位ターン。「あとで振り返って、この1勝が大きかったといえるかもしれない」とは星野監督の言葉だが、本当にそうなった。でもあの「誤審」がきっかけで、ゲームがひっくり返っていたらどうだろう。野球はリズムだ、そういうことはままある。ドラゴンズの優勝はなかったかもしれないじゃないか。この本にも誤審話は多々登場する(たとえば→4月7日)。いい加減、なんらかの対策を講じないとファンはそっぽ向くぜ。(杉) ☆2009年のコメント 現在星野シニアディレクターて、タイガースで何の仕事をしてるのでしょう。素人にはよくわからない。精神的支柱か? #
by sairyushakikaku
| 2009-07-22 18:50
7月21日/1970(S45)年
遠井吾郎、ランニングホーマー オールスター第3戦が広島市民球場で行なわれた。 山口県出身阪神部屋の遠井吾郎関は、4回裏2死一、二塁の場面でライト線に長打コースのヒットを放った。右翼手のジョージ・アルトマン(ロッテ)が突っ込むが、芝に足を取られて転倒。ボールも転々。一塁を回り、背後から降ってくるコーチャーズボックスの村山実コーチ(阪神監督)の「行けェ!」の声に押されて、走る走る。 言っておくのを忘れたが、遠井は球界でも有名な鈍足である。 巨体をゆすって、ようやく三塁ベースに到達しようとしたところ(もう足はほとんど動かないまでに疲労している)、信じられないことに三塁コーチャーの別当薫コーチ(大洋監督)が腕をぐるぐる。あの知的なメガネの別当監督は、非情にも本塁突入を命じたのだ。 三本間が心臓破りの丘。〝カメ足〟とも呼ばれる吾郎関は、同時に〝ホトケの吾郎ちゃん〟でもあり、素直で優しく力持ち。「嫌だ」とは言わない。走って走ってホームイン! ランニングスリーランとなった。 6回裏にも遠井はヒットを打つが、さすがに代走に江尻亮(洋)が出て、御役御免。この日の殊勲選手賞に輝いた。(春) 7月21日/1974(S49)年 〝代打屋〟高井、初のオールスターで代打逆転サヨナラ本塁打 この年の6月28日、太平洋クラブ・ライオンズの東尾修から1発カッ飛ばして代打本塁打の日本記録(14本。それまでは中西太、穴吹義雄が持っていた13本)を作った高井保弘は、全パの野村克也監督の推薦によって、初めてオールスターゲームというものに出場する。 その第1戦、後楽園球場。2-1と全セがリードした9回裏、土井正博(近)が三塁強襲ヒットで出ると、野村は迷うことなく高井を代打に指名した。松岡弘(ヤ)投げた2球目は、内角低めのストレート。高井の打球は、ショート藤田平(神)ジャンプしてグラブを差し出すほどの低い弾道のまま、左中間スタンド最前列に飛び込んだ。 オールスター史上初の代打逆転サヨナラ本塁打! 地味な代打男は、この一発で一躍全国区に躍り出ていくのである(しかし、この翌年からパシフィックでは指名打者制がスタート。DHに回ることの多くなった高井は76年には最優秀指名打者にもなるのだが、皮肉にもそのために代打本塁打は減っていった。代打本塁打は27本、世界記録である→8月27日)。 以下、余談だが、このときのオールスター戦が、外野アングルから投打の対決を映す嚆矢である。それまではネット裏から撮ったものだった。高井を迎えるまでほぼ完璧に全パ打線を抑えていた松岡の、田淵幸一(神)のサインをのぞく後姿の足が、やけに長く見えたことを覚えている。 余談ついでに、もうひとつ余談を書く。このときの登板で松岡は、2回3分の1、37球投げたのだが、彼が『徹子の部屋』に出演したとき、黒柳徹子が聞いた。「ピッチャーの方って1試合にどのくらいお投げになるの?」。「100球と少しぐらいですかね」と松岡。すると玉葱おばさん、「ええー? そんなに? 以前、平松政次(洋)さんにご出演いただいたときに聞いたら、『9回投げられればいい』っておっしゃってましたよ」。(春) ☆2009年のコメント そういえば私、昨日、ランニングホームラン打っちゃいました! ……って、自分の息子が所属する少年野球チームの紅白戦に大人(コーチ)たちも員数合わせで出て、の話。児童の素直なボールにバット振り回して左中間まっぷたつ。大人げないことこのうえないのですが、私以外の大人も全員大人げない大人たちでした。 #
by sairyushakikaku
| 2009-07-21 16:10
|
ファン申請 |
||