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9月24日/1986(S61)年
原、津田のストレートに骨折。 この夜、原辰徳は6番サードで東京ドームの広島戦に出場した。世間で言うところの〝降格〝だ。「4番を替えろ!」の原おろしの大合唱が、マスコミ、ファンから起きていて、王貞治監督もそれに従ったようだった。残りの11試合で逆転優勝を狙う巨人としては、窮余の策だったかもしれない。 スコアは4-1。3点を追う巨人に対して、9回裏のカープのマウンドには〝炎のストッパー〟津田恒美が仁王立ち。2死一塁となって打順が6番に回ってきた。原は前の打席、7回裏に大野豊から1点差に追い上げる36号を打っている。 津田は徹底した速球攻め。原も真っ向から強振する。1-1からファウルが6球も続き、問題の7球目――。 これもファウルだった。が、振り抜いたと同時に、原はバッターボックスにへたり込んだ。左手を押さえて……。左手は8月7日の中日戦でも関節挫傷しているが、この日のケガは、左手有鉤骨骨折――つまり、手の平の骨が折れてしまったのだ。 「あれ以来、一度も本来のバッティングはできませんでした」 と原が語ったのは、彼の引退後の話である。 彼は95年に引退するまでのそれからの9年を、原本人も〝聖域〟と表現せざるをえなかった「巨人の4番」――ON時代の夢の産物にすぎない、そしてそれはベイスターズの4番でもマリーンズの4番でも、本質は同じである――といういびつに痩せた感性が造り出した、巨人至上主義からくる不当に過剰な負荷に翻弄され続けた。(春日) 9月24日/1992(H4)年 荒木大輔、神宮の杜で復活 神宮の杜に〝救世主〟が降臨した。 14年ぶりの優勝を目指すヤクルトスワローズは、目下ドロ沼の9連敗中。首位タイガースに振り切られてしまいそうなヤバいムードだった。4-3と広島カープの1点リードで迎えた7回表2死一塁、4番の江藤智が打席に入る……という場面で、荒木大輔が1541日ぶりの1軍マウンドを踏んだ。 右ひじ靭帯損傷で3度の手術、そして椎間板ヘルニア。悪夢のような4年を過ごしてのカムバックだった。 この荒木の6球目、カウント2-3からのフォークボールに江藤のバットは空を切る。荒木はその復活を、見事三振という形で見せてくれた。投球回数は3分の1だけだが、それでじゅうぶんだった。 その裏、古田敦也が逆転2ランをレフトスタンドにぶち込み、自陣ダグアウトに向かって右手の拳固でガッツポーズ! 思えば、荒木は1988年7月6日を最後に4年もずっと1軍の戦列を離れていて、90年入団の古田なんて近くで見たこともなかったのだ。 5-4でスワローズはこの試合を取る。荒木はこの試合を終えても泣かなかった。だが、この日の荒木のピッチングを知って泣いた奴――そのほとんどがスワローズファンだったけれど――を何人も知っている。「プロ」というものは、「ファン」よりもずっと高いところで野球をやっている。そのことは荒木の復活でよくわかった。そして、荒木はケガを乗り越えて完全に復活することによって、「アイドル」を脱して「プロ」となったのだ。 荒木の復活なくして、92年、スワローズの優勝はなかった。(春日) ☆2009年のコメント 強かったですね、今年のジャイアンツ。もう、優勝か? ってなぐあいにあっさり行きましたね。 上の86年も92年も、優勝が決まるのなんて、まだまだ先ですから。 原も荒木も今でも元のユニフォームを着ていますが……荒木は、今年、最後の踏んばりどころでしょう。ここにきて、やっと先発投手が機能してきた観のあるスワローズですが、ピッチングコーチとして頑張ってほしいところです。 # by sairyushakikaku | 2009-09-24 17:21
9月11日/1992(H4)年
タイガース八木、幻のサヨナラホーマー。史上最長6時間26分の死闘。 普段あまり派手なパフォーマンスをしない八木裕が、両手を高く揚げてホームイン。スコアボードの9回裏のスペースに「2×」が点り、一塁側にはお立ち台も用意され……となれば、もうサヨナラホームランに決まっている! タイガースファンにとっては痛恨の、あの〝八木の幻のホームラン〟として記憶されるゲーム――。 4強が、残り約20試合と第4コーナーを廻り終えても、3ゲーム内に犇く混セ。ペナントを争う阪神とヤクルトが激突し、3-3で9回裏2死一塁。タイガースの八木が放った打球は左翼フェンスのラバー上部に当たって跳ね返り、その後ろの金網を掠めてからスタンドインした。 これを二塁の平光清塁審が手をグルグル回し、1度は「ホームラン」を宣告。が、スワローズ側が抗議し、ほかの3人の審判も「ホームランではない」と指摘したため、すぐにエンタイトルツーベースに判定が覆った。ここでタイガースが勝っていれば、スワローズ、タイガース、ジャイアンツのゲーム差なし……というところ。今度はタイガース中村勝広監督の猛抗議が始まり、中断は37分間。提訴試合として延長戦に入り、その後は規定の延長15回までスコアボードに延々と0が並び、結局3-3で時間切れ引き分け。 史上最長の、6時間26分の死闘。試合終了は午前0時26分。試合開始の6時には甲子園の銀傘の陰にあった名月が、三塁側からゆったりとグラウンド上を一周し、試合終了のさいには、野村監督以下ヤクルトのコーチ陣が選手ひとりひとりをお出迎え――と、勝ったときにしかやらない儀式で選手たちをねぎらった。 試合終了後に、阪神電鉄は甲子園発梅田行きの臨時電車を3便増発したが、学校5日制スタートの前日だったので、家族連れもかなりの数が最後まで残って観戦していた。これは教育上、たいへんよろしい。大のおとながボール遊びに真剣になっている姿を最後まで(といっても日本の場合「引き分け」させてしまうのだが)見届けさせるのが、親のつとめというものだ。 巨人が勝てそうにないと察するや、ゾロゾロと席を立つ連中はただの馬鹿である。、何が起こるか……下駄を履くまでわからない、最後の最後までスタンドにちゃんと腰を落ち着けるのが、野球馬鹿である。(春) ☆2009年のコメント ちょっと不思議な、夏向けの涼しいおはなし。 この翌日のバッティング練習のとき、八木選手は、この“幻のホームラン”と同じような場所に同じような当たりを打ち、「背筋が寒くなった」といいます。 私はこの試合、確か仕事をしながらラジオで聴いていて、「サヨナラホームランで試合終了」を確認しラジオを消して、仕事に没頭。夜遅く帰宅して「プロ野球ニュース」を点けたら、「まだゲームが行なわれています」との第一声で中継が始まったので、キツネにつままれたような気がしたものでした。 # by sairyushakikaku | 2009-09-11 12:56
9月10日/1996(H8)年
日本ハム・上田監督、デッドヒート中に突然休養 2位ファイターズが、1位ブルーウェーブを追い上げている最中だった。これからさらに激しいデッドヒートになろうかというとき、追走軍団の将、上田利治監督が突然「休養」を発表した。理由は家族の宗教問題。夫人と娘が、各所で問題を起こしている「統一教会」に〝洗脳〟されてしまい、彼女らを奪還できない。それを一部マスコミに察知され、報道されれば球団のイメージを損なうことにもなる。心労で、とてもチームを指揮できないというものだった。 「闘将」と呼ばれ、日本的なオヤジの典型のようにもみえた上田監督が、子どもの病気をチーム事情に優先させ解雇された88年のランディ・バースのように、結果としては仕事より家族の問題を優先させたことが興味深い。その行動がいいとか悪いとかは言いたくない。そうすることによって、非難されたり人望を失う可能性を全部引き受けることができるかが問われるだけで、あとは自分で決めるしかないことだからだ。そしてこの手の問題は、誰にでも起こりうるということは覚悟しておいたほうがいいと思った。 正監督不在のまま、この年のファイターズは優勝を逃した。辞任を表明した上田監督だったが、慰留されて秋キャンプから復帰、99年まで指揮をとったが、ついにペナントに手が届くことはなかった。(杉) ★2009年のコメント 東京時代はあまり強いイメージのなかったファイターズですが、北海道に行って「違う」チームになった感じです。強くなさそうなのに強いチームって、格好よくないですか(もっとも集団インフル以降、きつい状態が続きますが)。 # by sairyushakikaku | 2009-09-10 13:18
9月9日/1973(S48)年
安田の連続無四球記録 前年に防御率1位と新人王の2タイトルを獲ったヤクルトアトムズの安田猛投手は、この日も先発して、好投していた。対阪神25回戦。速球に加えて、シュート、シンカー、スライダーを変幻自在に、切れ味鋭く投げ込んでくる彼のピッチングは〝七色の変化球〟と呼ばれ、ここまで10勝10敗。防御率も両リーグでただひとりの1点台だった。 9回裏に2死一塁のピンチを迎え、阪神タイガースの中村勝広、遠井吾郎に連続2塁打を打たれて2-2の同点にされた。 甲子園球場が湧き、ボックスにはタイガースの4番、田淵幸一が入った。 アトムズの三原脩監督は、敬遠を指示。この年のセントラル・リーグはまれにみる戦国時代であり、9月に入っても首位から最下位までが3ゲームの僅差のなかにいた。アトムズにだって、ひょっとしたら優勝のチャンスがあるかもしれなかったのだ。 この敬遠で、安田のひとつの記録が途絶えた。この前の回の8回までの〝81イニングス連続無四球〟という記録。 記録をスタートさせたのも、7月17日の対阪神15回戦で田淵に四球を与えた次のイニングからだった。以来、先発にリリーフに20試合に登板して、まったくフォアボールを与えないピッチング。〝七色の変化球〟以外にも、安田には「制球王」の名がついていた。 この日の2回裏に、75イニングスに到達。これで白木義一郎(東急フライヤーズ。73年当時は公明党の参議院議員)が1950年に作った、74イニングスというそれまでの記録を23年ぶりに更新したのだった。 しかし、好事魔多し、というか何というか。 敬遠された田淵が1塁ベースを踏んで、次にバッターボックスに入ったのが、5番の池田純一。約1カ月前の巨人戦で、外野の芝の段差に足を取られて転倒。センターフライを決勝打にしてしまった、あの池田だった(→8月5日)。 安田は、その池田に対しての初球に、カーブを投げた。 池田が打ち返す。球はライト観覧席に跳ね返る逆転サヨナラスリーランと化した。 ……この年、タイガースは九分九厘手中にしていたセントラルの覇権を、情けないことに「あと1勝」を得られないために逃した。だから「あそこで勝てていれば」ということで、「池田の落球」は四半世紀を経た今でもファンの語り草なのである。だが、ファンは誰も池田を責めるようにはこの「落球」の記憶を語っていない。 池田純一という選手は、それだけファンの多かった男なのだ。 だからこそ、大記録を達成した瞬間の安田を、奈落の底に突き落とした「池田の一発」も、これによって1勝を拾ったのだから、タイガースファンは同様に語ってほしいと思うのだが、こっちのほうは忘れられている。 世間というものは、そういうものだ。(春) ☆2009年のコメント ヤクルトばなしが続きますね。 安田は阪神キラーで、この1973年のころは、対阪神3連戦の頭はだいたい「先発・安田」でした。ファンも、それでもうひとつは勝ったような気になっていました。 左腕で横からヒョイっと投げてくるタイプは、その後、ヤクルトには梶間というこれまた好投手がいましたが、この系譜はこのチームに久しく絶えてしまったようにも思います。 # by sairyushakikaku | 2009-09-09 13:09
9月7日/1950(S25)年
ルーキー金田の初勝利取り消し 前日の9月6日に行なわれた試合の結果を伝える、この日の『日刊スポーツ』をちょっと読んでみる。 まず、見出しが、 「でかした國鐵 巨人食う」 である。こんなふうに誉めてもらうほど国鉄スワローズは弱かった、球団結成1年目のお話(9月6日の勝ちを入れて、ここまでの国鉄の成績は、23勝64敗2分)――。 ちなみにこの4日前に、〝ジェーン台風〟が高知の室戸岬をかすめて大阪湾から神戸に上陸。関西地方に死傷者1000人、全壊家屋6000戸という大被害を与えていたため、この試合は「近畿風水害救済シリーズ」の2日目にあたっていた。舞台は後楽園である。 試合は、『日刊スポーツ』を続けて読むと、「前日同様巨人が未完の巨漢投手を打込めず、反対に国鉄は中尾、多田を鋭く打込んだため一点を争うシーソー・ゲームの展開となつた」が、6-5で国鉄が逃げ切り、巨人から2勝目の「金星」をあげたのだった。「巨人は左腕金田の荒けづりなピツチングに手を焼き四回待球主義に出て満塁のチヤンスを掴み青田の最初の安打で漸く同点とし七回には高橋の代りばなをねらつた山川の2ランホーマーでこの回まで三安打ながらよく五点を稼いだが、国鉄の巧みな投手リレーに幻惑され、八回二死満塁、再反撃のチヤンスに多田が三球三振を喫しては勝機を求めるのが無理であった」。 〝荒けづりなピツチング〟をした〝未完の巨漢投手〟〝左腕金田〟とは、もちろん金田正一。 この年、夏の愛知県予選で負けると、享栄商業を中退して国鉄入り。背番号「34」。 このころの新興チームには、だいたい、内野手がヒトけたの背番号をつけ、投手が10番台、捕手が20番台前半、外野手が20番台後半の番号をつけるという暗黙の了解のようなものがあり、監督は「30」番。新しく入ってきた選手が、「31」番からの背番号をテキトーに割り振られてつけていたようだ。だから1年目の国鉄スワローズのメンバー表を見ても、金田より大きい番号の選手は、総監督の「50」番以外には4人しかいない。選手の数も少なかったのだ。 金田の初陣は8月23日に松山球場で行なわれた広島戦(負け投手)で、そして初先発が、この9月6日だった。 〝勝利投手、金田正一〟として、プロ入り初勝利が記録された(7日の新聞にもそう書かれている)。 ――だが、翌9月7日。「規定適用の誤り」だったとして、9月6日の試合の勝利投手は金田からの〝代りばなを〟ホームランされた高橋輝に変更され、記録された。 しかし金田は、10月1日のまるは大洋ホエールズ戦(甲子園)で初勝利。10月8日の西日本パイレーツ戦(後楽園)で1安打完封勝利を飾るなど、入団1年目で若き国鉄のエースとして順風満帆のスタートを切り、400勝投手となるまでの栄光の歴史を駆け上っていく。しかし、プロ入り初勝利の取り消しという、そんなヌカ喜びがあったとは。 現在、背番号「34」は、スワローズの、ではなく、巨人軍の永久欠番である。(春) ☆2009年のコメント で、どうなっちゃったんでしょうね、スワローズ。今年のスワローズ。 あんなに好調だったのが、14あった貯金を10カード連続負け越しで使い果たし、CS出場にも黄色信号が点る。おまけに後ろからはタイガーズが7カード連続勝ち越しで猛追。ま、貯金のできない俺がやいのやいの言っても、あまり説得力持たんだろうが。 この1950年は7位でした。といっても最下位ではなく、最下位は8位のカープで、じゃ6位は? というと西日本パイレーツが6位だったんですね。 昔のはなしはいいとして、今年のスワローズ。「お願いしますよ」って感じです。 # by sairyushakikaku | 2009-09-07 12:47
9月4日/1977(S52)年
大野豊デビュー。防御率は135。 広島市民球場での広島対阪神の18回戦は、5回までの緊迫した0-0の試合展開が崩れ、12-2と阪神がリードして8回表を迎えていた。 すでにこの試合を捨てた広島の古葉竹識監督が登板させたのは、背番号57番の新人左腕だった。出雲信用金庫からドラフト外で入団、22歳にしてのプロ入り初登板である。大野豊。 で、結果は……2番島野育夫が、いきなりセンター前。3番掛布雅之は捕邪飛で退けるものの、4番田淵幸一が左越え2点本塁打。5番川藤幸三はレフト前、6番佐野仙好もライト前へ続き、そして7番片岡新之介にレフトスタンドへ2ランを打ち込まれる。8番中村勝広、9番山本和行と連続フォアボール。で、降板。 この77年の大野の登板は、これのみ。したがってこのルーキーイヤーの彼の成績は、打者8人に対し、被安打5、与四球2。これがすべて。3分の1回を投げて自責点5だから、防御率は「135」という天文学的な数字として、昭和52年度公式記録に残された。 ――大野は1998年に43歳で引退するまで22年間投げた。148勝100敗138セーブ。防御率は2・90である。(春) 9月4日/1981(S56)年 〝傘踊り〟の嚆矢 えぇー、毎度馬鹿々々しいお噺を。 なにごとにも初モノってぇのがございまして、たとえば、ある言葉が流行ったりして「そいつを最初に使ったのは俺だー」ってたぐいのもの。そんな噺を、おひとつ。 この日、台風くずれの低気圧が日本列島を覆っておりまして、プロ野球は予定された5試合のうち3試合が中止となりました。東京地方も、朝のうちはまだ落ちてはいなかったものの、皆さん傘を用意されての通勤通学という空模様。学生だったあっしらも、ちゃんと傘を用意して学校に……ではなく、1・5ゲーム差にひしめく2位ヤクルトと3位阪神の試合を観に行ったんですな。神宮です。発表だと、この試合の観衆は1万8000人いたそうです。1週間ほど前に、阪神のピッチャーだった江本孟紀が「ベンチがアホやから野球がでけへん」と言ったとか言わないとかで、結局タイガースを退団したばかりのころでした。 で、やっぱり試合が始まると、そう間も置かずに降ってきたんですね、雨が。7回表のタイガースの攻撃中によりいっそう強く降ってきて、一時中断となりました。一塁ベンチにいたヤクルト武上四郎監督は「まだまだー。小降りになったらすぐやるぞー!」と大声を出していたらしいですが、私ら右翼外野席にいた連中にゃそんなの聞こえません。結局、この試合はそのまま7回表でコールドゲームとなってしまうんですが、5-2でタイガースが勝ち、この結果、巨人に「14」というマジックナンバーが点灯しました。 そんなこたどうでもいいんですけど……ゲーム中ほとんど雨が降ってたようなもんでしたから、皆、傘を差して試合を観ている。その周りじゃ、トランペットが鳴り響く。我われ――といっても、そこいらにいた観客の皆さん、ほとんどがそうなんですが――は、つい音楽に合わせて足のつま先でリズムをとるように、傘を応援歌に合わせて上下させる。試合にゃ負けてるし、半分自棄って感じでしたかね。「かっとばせー大杉」とか、「東京音頭」でも。でも、今思えば懐かしい〝3番レフト若松〟は、ちゃーんとホームラン打って見せてくれましたね。 ……つまり、何がいいたいかというと、「神宮のヤクルト応援の傘踊り。ありゃ、1981年9月4日に神宮に行った俺らが始めたんだぞー」ってことですな。もちろん時代の先駆者というのは常に恵まれない存在でして、この〝雨が降ってきたための余儀ない傘踊り〟は、その夜限りの悪いヤリ逃げ男のごとく、「忘れることにしましょう」という運命にありました。 ――ところが! その翌年、江本の書いた『プロ野球を10倍おもしろく見る方法』がベストセラーになって映画化もされました。この映画のラスト近くにおいて、あたしゃ「オオッー」と声を上げちゃいましたね。「……俺たちが……映って……い、る」。そう、あのアホな新興宗教のようなボンビーな黒い傘踊りが、スクリーンに大写しにされたじゃありませんか。「黒い」っていうのは、だってただの雨傘なんだからほとんどが黒。緑やブルーは少なかったように記憶しています。だから冗談じゃなく、ほんとに貧乏っぽい、かつ力も入ってない、惰性で振っているような傘の動きなんですけど。 その翌シーズンぐらいからです。神宮のスタンドに美しい傘の花が咲くようになったのは。いえ、市井に埋もれた歴史の生き証人を自認する爺の独り言でございますよ。ほかにも「ふッざっけるない。傘踊りは、俺らが始めたんだい」って同じようなことをおっしゃるスワローズファンの方は大勢いらっしゃるでしょう。お笑いくださいまし。(春) ☆2009年のコメント 神宮の傘。あんなのどんな傘でもいいだろうと思うけれど、「それ用」のものがちゃんと球場周辺のショップで売ってるんでしょ。オフィシャル応援傘。球団の商魂たくましさを語ってあまりある逸品だと思うのですが、昨今流行りの「エコ・バッグ」ってえやつを想起させますね。どうも“グッズ”と称する野球関連商品は好きになれないのです。 # by sairyushakikaku | 2009-09-04 12:50
9月2日/1993(H5)年
ギャオス内藤、一世一代のクリーンアップ斬り ヤクルトスワローズにとって、8月31日からのナゴヤ球場3連戦は、天王山だった。秋風とともに猛追してくる中日ドラゴンズに初戦、第2戦と落としたスワローズは、首位をドラゴンズに明け渡した。そして迎えた第3戦。2-2のタイスコアで延長15回裏まで進み、ドラゴンズは無死満塁と攻め立てる。規定で、次の回には入らない。スワローズにとっては、もう勝ちはないので、何とかドローに持ち込まないと苦しい状況になる。 マウンドに上がったのは内藤尚行。開幕は2軍だったし、その後もファーム落ちしていて、これが1軍に上がってきて2試合目の登板。しかも迎えるのは、〝強竜打線〟のクリーンアップだった。外野フライ1本打たれたら、それで終わりである。内野ゴロでゲッツーを狙うテもあるが、内野は前進守備。簡単に間を抜かれかねない。だから三振を、それもまず立て続けに最低2つは取らなきゃいけない場面。 「いまやかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな」――正岡子規の短歌だが、内騒ぐ胸を内藤と古田敦也のバッテリーはどう処理したか?……開き直りだった。 3番はアロンゾ・パウエル。2球目が「腕に当たったか!」というほど近く行ったように、ともかくインコース一本槍の投球で三振に片付けた。 4番は落合博満。今度はすべてフォーク一本槍。……といってもたった3球。最後は高めから落ちてくるボールを落合は見逃し、三振に倒れる。 5番、彦野利勝。フォークと速球とスライダーのコンビネーションで2-2にしたあと、低めを打たれたらしょうがない、と投げたボールを彦野は見送り、やや間があってプレートアンパイアの「ストライーク!」のコールが響く。 「やったぎゃー」――砂漠状態の喉から振り絞られたギャオスの雄叫びで、4時間56分の死闘が終わった。一世一代の16球。もちろん古田のリードだが、内藤の気迫がなかったら実現できない離れ技だった。この結果、スワローズは3厘差で首位ドラゴンズに肉薄し、最後には優勝をさらった。 ……内藤を1度だけ営団地下鉄銀座線の車内で見かけたことがある。まだ〝ギャオス〟などという「またの名」も頂戴せず、やっと1軍になりかけた背番号53のころだった。誰も「ああ、内藤だ」なんて気づきもしないのに187センチの大きな身体を黒いロングコートで包み、戸袋近くに立っていた。愛知出身の友人が内藤を「あれこそは三河人の顔だらぁ」と評したが、本当に気のいいアンちゃん風の男だった。ちなみに、その友人に言わせれば、神宮球場に行くときの下車駅〝千駄ヶ谷〟が可笑しいという。「だって、あれ、センダガヤだがやーっていいたくなる」。そんな話はいいとして、内藤尚行は94年オフに千葉ロッテマリーンズにトレードされた。交換要員は、94年に古田の怪我に泣かされた首脳陣がラブコールを送り続けた青柳進。内藤は移籍1年目こそ5月までに3勝を挙げるが、右肩を痛めてしまい、96年途中で地元ドラゴンズへ。もう輝きを放つことなく97年限りで引退した。今ではたまにスポーツがらみのテレビ番組で見かける程度だが、気のいいアンちゃん風は変わっていない。プロの1軍で36勝もした男に対して、あまり馬鹿にした使い方だけはしないでほしいと思う。(春) ☆2009年のコメント Jスポーツでたまに見るんですが、内藤さんの解説、わかりやすくて好きです。 『坂の上の雲』がNHKでドラマ化されるそうですが、子規の出る場面では、是非、明治の野球の風景も映像化してほしいと思うのでアリマス。 # by sairyushakikaku | 2009-09-02 13:56
8月20日/1983(S58)年
仁科、ノーヒッターを逃す 「あとひとりでノーヒッター」を二度も逃したのが、ロッテ・オリオンズの仁科時成だ。最初はこの日、対近鉄バファローズ戦、シンカーを軸に球を低めに集め、ノーヒッター寸前になるが、9回2死から仲根政裕にヒットされてしまう。が、後続を断ち1-0の完封勝ち。2回目は翌年5月29日、相手がバファローズというのも因縁めいている。このときは平野光泰にヒットされている。しかし、動揺せずにまたも完封。 こんなことがあっても、仁科は落胆しなかったという。というよりこの失敗を糧にすることができた。77年入団だから1回目のときはすでに7年目で、32歳。ベテランにさしかかっている。アンダースローで、それほどスピードや球威があるようにはみえなかったから、投球術を磨いた結果がこの歳での〝偉業寸前〟だった。だからへたにノーヒッターをやって満足するより、〝まだまだ〟とさらに研鑚を積むことのほうが大切だったのだ。その結果、84年には3年ぶりの2桁勝利、それを3年維持した。37歳まで現役を続け、110という勝ち星。人生には〝偉業達成〟より重要なこともあるらしい(→5月9日)。(杉) ★2009年のコメント ロッテのアンダースローといえば、今は渡辺俊介ですね。アンダースローが「絶滅危惧種」といわれて久しくなりました。俊介に続く確かな人材がいないのが寂しいところです。「水原勇気」は休養らしいし、甲子園でも見ない。MLBのほうが多い? それにしても、今季の俊介は勝てませんね。今日現在で2勝10敗。先日も粘投が報われず。テンポが悪いわけではないのになぜ?小林宏も勝てない。この「なぜ」に答えられれば、今季の千葉ロッテが凹んでいるホントの原因が解けるかもしれません。 # by sairyushakikaku | 2009-08-20 14:10
8月17日/1979(S54)年
ヤクルト、森・植村コーチをクビに 開幕8連敗でスタートした前年の日本チャンピオン、ヤクルトスワローズは、この時点で31勝46敗9分で最下位。首位広島カープとはすでに10・5ゲームもの差がついていた。 そしてこの日の夕方、佐藤邦雄ヤクルト球団社長が、 「森(昌彦ヘッドコーチ)、植村(義信投手コーチ)両コーチは休養し、広岡(達朗)監督は17日の巨人戦の指揮を取らず、佐藤(孝夫)打撃コーチが監督を代行する」 と、試合開始まで2時間もない後楽園球場で発表したのだった。 後楽園のゲームは、巨人に2-9と大敗。午後9時半になって神宮のクラブハウスで記者会見した広岡監督は、「チームの現場の責任者はあくまで私であり、私の指揮下にあるコーチがチームの不振の責任を負わされ更迭ということを認めるわけにはまいりません」との声明文を読み上げ、退団することを発表した(29日に正式に退団)。 広岡監督と松園尚己オーナーは、もともとV1後のトレードをめぐって対立、モメていた。 オーナーの意向で「トレードをしない」〝家族的〟なヤクルト球団だったが、広岡監督はチャーリー・マニエルを近鉄バファローズへトレードに出し、球団が退団させたがった森コーチも、監督がかばって残留。さらに監督は、球団役員の交代も要求したという。 このとき監督を辞めさせなかったのは、優勝監督をクビにしては世間の物笑いの種になる、という球団側のメンツだけだった。 球団では8月7日に、植村コーチの二軍降格と森ヘッドコーチをただのコーチにするよう監督に迫り、拒否されていた。そしてコーチ「休養」の発表。こうなると報復合戦といった感じだ。 オーナーは腹にすえかねていたわけだから、この年の悪成績では、シーズン途中での球団によるコーチ更迭、それに伴う監督の退団は予想できないことではなかった。それにしても、日本一からわずか10カ月のこの大失態。V1スワローズは、この時点で瓦解した。 以後、燕は14年にわたる長期超低空飛行を続けてゆく。(春) ☆2009年のコメント この広岡退団は、何が起こったのか――よくわからないながら、びっくりしたことはよく覚えています。マニエルと一緒に近鉄に放出された内野手の大ファンだっただけに、広岡監督の「非情さ」というかたちで、そのトレードも印象に強く残っています。その内野手は、トレードで移った近鉄、その後また移籍した阪神でもリーグ優勝に選手として貢献できたのだから、彼にとってはよいトレードだと思うのですが。彼=永尾というショートでした。 さて、11日の、村山が泣いて退場した試合の結果ですが、延長10回表に阪神が1点を取り、それが決勝点。阪神が3-2で勝ったようです。 # by sairyushakikaku | 2009-08-17 14:30
8月11日/1963(S38)年
村山、泣いて抗議で退場。打者0、登板1という珍記録。 後楽園での巨人対阪神戦。ダブルヘッダーの第2試合。首位巨人に16・5ゲーム差とつけられた3位とはいえ、第1試合を小山正明で落としているタイガースは、どうしても勝ちたい。 7回裏の巨人の攻撃は、1死で二、三塁。スコアは1-1の同点。阪神の藤本定義監督がマウンドに送ったのは、エースの村山実。この前日に、村山は巨人打線を8回までパーフェクトに抑える力投を見せ、2安打完封で3勝目を挙げている。必要とあればエースの連投もあった時代だ。 さてこの夜、急遽リリーフに立った村山が迎えたバッターは、代打の池沢義行。前夜も9回裏に代打で出てきて村山のパーフェクトを粉砕する右翼フェンス直撃のヒットを打っている男。カウント2-2から、村山と戸梶正夫の阪神バッテリーは、内角低めの速球で勝負した。「ボール!」と国友主審の判定に、マウンドを降りてきた村山が「どこを見とるんや」と猛抗議。激しい口調の抗議は退場を招き、藤本監督も血相を変えて抗議。 そこで村山は泣いた。号泣、悔し涙、男泣き。 ベンチから出てきた山本哲也捕手が抱き止めるなか、村山はなおもアンダーシャツの袖で流れる涙をぬぐって退場していった。――打者0、登板1という珍記録となった。(春) ☆2009年のコメント 野球規則では、投手は1人の打者との対戦が終わるまでは交代できない、ということになっていますが、これはその例外としての珍記録ですね。この1球が「ボール」であったために、打者池沢のボールカウントは、「2-3」。つまり、村山はまだ池沢との対戦を終えていないわけですね。で、この後、どうなったのでしょう? 試合はどちらが勝ったのか? 今度調べてみることにしましょう。 # by sairyushakikaku | 2009-08-11 14:13
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